news_large_lyricalschool_datecourse

★10

我ながら気持ち悪い書き方だけど、lyrical schoolに救われた。

音楽で救われることさえ滑稽なのにアイドルに救われるなんて、と書くとアイドルシーンを上から目線で見てるような感じだけど、自分にとってはその通り。いくらアイドルシーンが盛上がっていても本当に良い歌を歌うアイドルは一握りだし、それ以外は騒音でしかない。それはアイドルに限らずJ-POPでもロックであろうと同じことだけど、でも今のアイドルシーンを見ていると「すべて単純化すればいいと思ってるんだろ?」という苛立ちが先に出てくる。

だからと言ってlyrical schoolが今までのアイドルとは異なる革新的な存在だとは思わない。tofubeatsやokadadaのようなその時代の旬のトラックメイカーを起用したアイドルというのは90年代に奥田民生や草野マサムネの曲を歌い表舞台に立ったPUFFYと大差ないし、さらに言えば専属のプロデューサーが付いたAKB48やPerfumeとも根本的には変わりない。アイドルはその時代の最も旬な音楽家の想像を刺激し、そこから生まれた産物でパフォーマンスすることで共犯関係を築いてきた。

そのアイドルの枠組みから生まれた産物がなぜこの時代の魂を救うのか。それはどうしようもなく僕らが孤独だからだ。いや何も孤独が始まったのは今ではない。人は生まれた時からひとりで、死ぬ時までずっとそうだ。家族や友達がいることが孤独を癒すわけではない。そもそも孤独は悪いことはではない。ひとりだからこそ救われることもある。例えば僕ならひとりで映画を観たいし、その感想をその場で誰かと話したいとは思わない。その一方でライブに行くとき誰かを誘ったりするし、誰かと一緒に行く楽しみも確実に存在する。だけどそういう時、心の片隅にどうしようもないほど目の前の誰かと共有できない鬱憤が残る。どうしようもなく孤独を痛感してしまうのは、目の前の誰かに吐き出せない思いを抱えた時なのだ。

このアルバムは孤独を癒してくれるわけではない。ただリリスクは、誰もが孤独のつらい部分を抱えていることを承知の上で「おいでよ」と歌っている。それに応えたところで僕らの現実は変わらない。でも4分14秒だけはすべてを忘れていられる。これほどまでに浸れるのは、その前の「-turn-」以降のパートがあるからだ。okadadaの「でも」に「P.S.」、そしてtofubeatsの「ひとりぼっちのラビリンス」が続く。アイドルでありながらアルバムの中で明らかに重いシリアスな展開を迎える。

アルバムを聴きながら宇多田ヒカルの『HEART STATION』を思い出した。彼女は『ULTRA BLUE』という最もシリアスに内面に迫った作品を経過した後、ポップメイカーとしての才能を連続シングルリリースという形で発散し、アルバムの中で敢えてそれを前半に押込めた。超一級のJ-POPシングルの乱れ打ちの後、彼女は「テイク5」という形でシリアスな自分を曝け出した。

それと同じことを、作詞作曲すらせず、しかも複数のトラックメイカーを起用しているにもかかわらず、彼女たちはやってのけた。だから「おいでよ」という孤独な男達が作ったファンタジーに身を委ねることができる。孤独を知らない人間に孤独を癒せるわけがない。キラキラした世界しか見ていない人間が、煌びやかなことを歌ってもそれは飾り物に過ぎない。アルバムを再生するたびに「リリスクはきっとわかってくれる」、そんな勝手な自分の期待を確認する。